今回はフィロソフィー的なお話をします。
トレーニングは補強にすぎない
たとえば「競技中の◯◯という動きが上手くできるようになりたい」という願望を持ったアスリートがいるとします。
そして、その◯◯を現時点で上手くできていない原因が、お尻の筋肉を上手く使えていない、ということだったとします。
だったら、◯◯の動きの中で、お尻の筋肉を上手く使えるように意識しながら、◯◯の練習をガシガシとやれば良いのです。
そして、それで動きが改善されて、◯◯という動きが上手くできるようになるなら、それで良いのです。
あえてトレーニングをやる必要はありません。
トレーニングはあくまでも補強にすぎないのですから。
しかし、そもそもお尻の筋力が弱くて◯◯の動きの中で使えるだけの筋力が存在しないのであれば、どれだけ意識して練習しても使えるようにはなりません。
そういう状況の時に初めて、補強としてのトレーニングが必要になるのです。
つまり、練習だけやっていても◯◯が上手くできるようにならないから、練習とは別にトレーニングをやる、という発想です。
トレーニングの動きを競技の動きに近づける?
そういう発想で、練習とは別に補強としてトレーニングをやってお尻の筋力を上げたいのですから、その手段としてのエクササイズを選択する時の基準は「健康的に・効率的に・最大限にお尻の筋力を向上させることができるもの」であるべきです。
べつにエクササイズが◯◯という動きに似ている必要はありません。
むしろ、◯◯の練習をガシガシやってもお尻の筋力が上がらないのであれば、◯◯の動きに似せたエクササイズを選択しても、お尻の筋力が向上する可能性は低いでしょう。
だったら、補強であるトレーニングにおいては競技練習とはまったく別のことをやる、くらいの気持ちでエクササイズを選択したほうが、目的達成に近づくのではないでしょうか?
まとめ
同じようなことは本ブログでも何度も書いていますが、この考え方が浸透するまで書き続けようと思います。
ブログを継続して書き続けるためには、トピックが重複することを恐れるわけにはいかないですし。
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【編集後記】
以前、査読をしてaccept with minor revisionという評価をした論文が手直しをされて再投稿されたので、また査読をしました。
珍しく良く書けている論文だったので、もともと査読コメントは多くなかったのですが、その少ないコメントにもしっかりと答えて適切にreviseされていたので、acceptの評価をさせてもらいました。
残念ながら、よく書けている論文の査読を担当できるのは珍しいことなので、なんだかうれしい気持ちになりました。